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戦後、イギリスから京都大学へすぐれた物理学者がやってきた。招かれたのかもしれない。この人は、珍しく、日本語が堪能で、日本では、日本人研究者の英語論文の英語を助けることを行なっていた。のち、世界的学者になる人である。
この人が、日本物理学会の学会誌に、「訳せない“であろう”」というエッセイを発表し、日本中の学者、研究者をふるえ上がらせた。
日本人の書く論文には、たえまず、“であろう”ということばが出てくる。物理学のような学問の論文には不適当である。英語に訳すことはできない、という、いわば告発であった。
おどろいたのは、日本の学者、研究者である。なんということなしに、使ってきた語尾である。“である”としては、いかにも威張っているようで、おもしろくない。.ベールをかけて
(注1)“であろう”とすれば、ずっとおだやかになる。自信がなくて、ボカして
(注2)いるのではなく、やわらかな感じになるのである、などと考えた人もあったであろうが、学界はパニックにおちいり、“であろう”という表現はピタリと止まった。
伝えきいたほかの科学部門の人たちも、“であろう”を封鎖してしまった。科学における“であろう”は消滅した、というわけである。
(外山滋比古『伝達の整理学』人筑摩書房による)
(注1)ベールをかける:はっきりとわからないように覆い崩す
(注2)ボカす:意味や内容をはっきり言わずぼんやりさせる