①
かつての遊びにおいては、子どもたちは一日に何度も息を切らし汗をかいた。自分の身体の全エネルギーを使い果たす毎日の過ごし方が、子どもの心身にとっては、測りがたい重大な意味を持っている。
この二十年ほどで、子どもの遊びの世界、②
特に男の子の遊びは激変した。外遊びが、極端に減ったのである。一日のうちで息を切らしたり、汗をかいたりすることが全くない過ごし方をする子どもが圧倒的に増えた。子ども同士が集まって野球をしたりすることも少なくなり、遊びの中心は室内でのテレビゲームに完全に移行した。身体文化という視座
(注1)から見たときに、男の子のこの遊びの変化は、看過
(注2)できない重大な意味を持っている。
相撲やチャンバラ
(注3)遊びや鬼ごっこ
(注4)といったものは、室町時代や江戸時代から連線
(注5)として続いてきた遊びである。明治維新や敗戦、昭和の高度経済成長といった生活様式の激変にもかかわらず、子どもの世界では、数百年以上続いてきた伝統的な遊びが日常の遊びとして維持されてきたのである。
しかし、それが1980年代のテレビゲームの普及により、絶滅状態にまで追い込まれている。これは単なる流行の問題ではない。意識的に臨まなければ
(注6)取り返すことの難しい身体文化の喪失である。かつての遊びは、身体の中心感覚を鍛え、他者とのコミュニケーション力を鍛える機能を果たしていた。これらはひっくる
(注7)めて自己形成のプロセスである。
コミュニケーションの基本は、身体と身体の触れ合いである。そこから他者に対する信頼感や距離感といったものを学んでいく。たとえば、相撲を何度も何度も取れば、他人の体と自分の体の触れ合う感覚が蓄積されていく。他者と肌を触れ合わすことが苦にならなくなるということは、他者への基本的信頼が増したということである。これが大人になってからの通常のコミュニケーシコン力の基礎、土台となる。自己と他者に対する信頼感を、かつての遊びは育てる機能を担っていたのである。
この身体を使った遊びの衰退に関しては、伝統工芸の保存といったものとは区別して考えられる必要がある。身体全体を使ったかつての遊びは、日常の大半を占めていた活動であり、なおかつ自己形成に大きく関わっていた問題だからである。歌舞伎や伝統工芸といったものは、もち
ろん保存継承がされるべきものである。しかし、現在、より重要なのは、自己形成に関わっていた日常的な身体文化のものの価値である。
(土居健郎・齋藤孝『「甘え」と日本人』 KADOKAWAによる)
(注1)視座:視点
(注2) 看過できない: 見過ごせない
(注3) チャンバラ遊び: 枝や傘を刀に見立てて斬り合うふりをする遊び
(注4) 鬼ごっこ : 一人が鬼になって他の者たちを追い回し、捕まった者が次の鬼になる遊び
(注5) 連綿:途絶えずに長く続くようす
(注6) 臨む:立ち向かう
(注7) ひっくるめる: ひとつにまとめる
(65)①かつての遊びとはどのような遊びか。
(66)②特に男の子の遊びは激変したとあるが、どのように変化したか。
(67)かつての遊びの機能として筆者が述べているのはどれか。
(68)筆者が最も伝えたいことは何か。