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自分で自分の書いた日記を読み返し、そこに描かれている「私」の姿にとまどいや自己嫌悪を感じた経験はないだろうか。
描かれている「私」はたしかに自分であるはずなのだけれども、まるで別人のようにも感じられる。いつも赤の他人(注1)ならよいのだろうが、一見異なる人物が実はほかならぬこの自分自身でもある、という二重感覚がわれわれをとまどわせ、羞恥や嫌悪の引き金になるのである。
いや、こうした言い方はあまり正確ではないかもしれない。たとえば写真で過去の自分の姿を見た時、われわれが感じるのは羞恥(注2)や嫌悪よりも、むしろ「こんな自分もいたのだ」というおかしみや懐かしさである。画像が外面的、形態的な客観性を保持しているのに対し、日記は言葉で書かれているために、本来外にさらされることのないはずの「内面」を露呈して(注3)しまっている。そのためにわれわれは勝手な「内面」づくりにいそしんで(注4)いた、まさにその行為にいたたまれなさを感じるのだ。
日記に登場する「私」は実にさまざまだ。友人と喧嘩したときの記述は自分が都合よく正当化されてしまっているかもしれないし、失恋したときの記述はこの世の悲劇を一身に背負ったヒーロー、あるいはヒロインになってしまっていることだろう。その時々の要請に従ってフィクショナル(注5)に仮構された「内面」が、今、読み返している「私」と同一であることを強いられるがゆえに、われわれはいわく言いがたい(注6)羞恥や嫌悪を感じてしまうのである。
(注1)赤の他人:全くの他人
(注2)羞恥:恥ずかしさ
(注3)露呈する:ここでは、あからさまにする
(注4)いそしむ:励む
(注5)フィクショナルに仮構された:ここでは、事実とは異なる脳内の
(注6)いわく言いがたい:ここでは、簡単には説明できない

1。 (55)筆者によると、写真におかしみや懐かしさを感じるのはなぜか。

2。 (56)筆者によると、日記を読み返したときに羞恥や嫌悪を感じるのはなぜか。