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完全に記憶でき、忘れない脳があったらいいと思う方もいるでしょう。しかし、記憶は不完全になるように、あたかも設定されているかのようです。それどころか、都合よく記憶同士を合成したり、書き換えたりすることも行われます。場合によっては、自分の昔の恋人との記憶と、現在の配偶者との記憶が混在してしまう……というような事態も生じたりしてしまうわけです。
かといって、完全に記憶できる人が仮にいたとしたら、一体どうなるのでしょうか。嫌な思い出を忘れることもできず、周囲に合わせるための都合のよい記憶の書き換えもできず、かなりつらい人生を送ることになるでしょう。
記憶が徐々に消えていく、あるいは書き換わる仕組みが存在するのは、より良く生きていくためには自然で、当たり前のことだと言えます。
例えば、体験した危険な出来事を学習し、同様の事象を回避するための安全装置として記憶の仕組みが発達してきたのだとすれば、一定期間その危機がやって来なければ、その案件の重みづけを変え、優先順位を低く見直す仕組みが必要になります。それよりも、高頻度かつ致命的な影響を与え得る危険の方を優先的に回避するべきで、なかなか起こらないことに記憶のリソースを割いていると、かえって重要なことに対応できず、危険な状態になってしまいます。また、過去の失敗だけでなく、成功体験にとらわれやすくなるため、前例のないことには新しい挑戦をしにくくなります。
したがって、人間の能力の一部に過ぎない記憶力をことさら重要視する現代の教育や受験制度は、せっかく最適化されてきたはずの人類の生存戦略をかえってゆがめてしまっている可能性があるのではないかと思います。テストでは高得点を取るために記憶力が高い人が有利になるのは確かですが、その結果をそのまま優秀であるかどうかのランク付けとして使うのはいかがなものかと思います。
というのも、テクノロジーの発達によって、不完全な人間の記憶力はどんどん補完されるようになってきており、実際にその仕組みは社会でも利用され始めているからです。文字をパソコンやスマートフォンで打つようであれば、漢字の書き方を忘れても大きな問題にはなりませんし、そもそも人間の漢字記憶力は、パソコンやスマートフォンには絶対に勝てません。ならば、使用頻度がそれほど高くない漢字を覚えるより、素直に電子機器の恩恵にあずかった方がよさそうです。
このような機器の性能はこれからさらに高まっていくわけですから、優秀な人を見分ける基準として記憶力という尺度を使うのは、多くの人が同じように感じていると思いますが、すでに時代にそぐわなくなってきているのかもしれません。