(3)
 尊敬する人というのは、ライバル意識を燃やして対抗したり、あるいは見習おうとして背伸びをするというのではおさまらない人物のことではないだろうか。また、何か大きなことをしてくれた「恩人」と常にイコールになるわけでもない。
 私にとって中西悟堂(注1)がそうであるように、①尊敬する人というのは、とても自分にはかなわない、真似もできないほど「すごい」と感嘆してしまう人なのではなかろうか。謙手を挙げて(注2)「降参し(注3)、「参りました(注4)」と言いながら、「それでもあなたのようになりたいです」と振り仰いでしまう。その人が直接自分に手を貸したり恩をくださったりしなくても、その人と何かしらの接点をもつだけで生き方も世界観も変えられてしまう、そんな人物なのではなかろうか。
 だとすれば、そんな人は、おいそれと(注5)は現われないのもまた現実のように思う。「尊敬する」ことがそれほどに重い気持ちであれば、無条件に「両親」とか「先生」という答えばかりが飛び出すのは②不自然であろう。
 そして、こういう人と出会って心から尊敬できることは、取りも直さず私たち自身が誠に幸せなひとときを得るということなのではなかろうか。
 人間として本当に敬意を表わす(注6)ことができる人に出会うには、まず私たち自身が心のアンテナをしっかりと張り詰めて、「そういう人」たちと出会う準備を整えておかなければならないように、私には思えるのである。

(三宮麻由子『目を閉じて心聞いて』岩波ジュニア新書による)


(注1)中西悟堂:野鳥研究家・歌人・詩人(1895年〜1984年)
(注2)謙手を挙げる:無条件に、または心からそのことを受け入れる
(注3)降参する:戦いや争いに負けて、相手に従う
(注4)参る:負ける
(注5)おいそれと:簡単に、すぐに
(注6)表わす:表す

1。 (56)ここでの①尊敬する人というのはどのような人か。

2。 (57)②不自然なのは何か。

3。 (58)尊敬する人と出会うために筆者が必要だと考えていることは何か。