(前略)現代においては、社会人として一人立ちするまでに吸収すべき知識が非常に多くなってきている。そのうえ、他人よりも少しでも有利な地位や、上の地位につきたいと思うと、学習しなくてはならないことが非常に多い。しかも、親が自分の子どもの幸福について考えるとき、どうしても、自分の子どもが社会的に優位な地位につくことがそれに直結するという考えに傾くので、子どもに知識のつめ込みを強いることになる。つまり、①子どもは、うっかりすると相当に早くから、このような知識のつめ込みにさらされて(注1)ゆく。実際、幼稚園の段階から、英語などを「教える」ところが親に大いにもてることは、驚くべきものがある。
 このような状態は、端的に言えば、子どもを育てるうえでの「自然破壊」なのである。子どもが「自然に育つ」過程に対する干渉が、あまりにも多すぎるのである。子どもの数が少なくなったこと、経済的に豊かになったことが、この傾向に拍車をかけている(注2)。小学生が塾や習い事のために、ほとんど毎日放課後の時間を拘束されていて遊ぶ時間がないとか、一人の中学生に家庭教師が五人もついていたりする状況がある。
個性を尊重するためには、個人のもつ可能性が顕在化して(注3)くるのを待たねばならない。ところが、できるだけ多くの知識を効果的に吸収させようとすると、それはむしろ個性を破壊することになる。しかも、評価を「客観的」にするという大義名分(注4)のために、「正答」がきまっている問題をできるだけ早く解く訓練をすることは、ますます個性を失わせることにつながる危険性をもつ。
 ②これらのことによって、「自然」の成長を歪まされている子どもたちに対して、もう一度根本にかえって、自ら「育つ」ことのよさを体験してもらうことが、現代の教育においては必要となってきているのである。考えてみると、「自然」なのだから、何も工夫はいらないようなのだが、その点について考えたり、工夫したりしなくてはならないところに、③現代の教育の難しさがあると言っていいだろう。
 教育ということを「研究」するときに、どうしても「科学的」に研究することが望ましいと考えられる。人間が学習を行ってゆく過程や、成長発達してゆく過程は、ある程度客観的に捉えられ(注5)、それを研究することができる。これを基にして、効果的な教授法が考え出されたり、発達の段階が設定されたりすることは、子どもを全体として捉え、それにいかに教えるかを考えるうえで、相当に有効である。しかし、これをもってすべてであるとは考えないことが大切だ。

(河合隼雄『子どもと学校』岩波新書による)


(注1)さらす:避けられない状態にする
(注2)拍車をかける:ある状態の進行を早める
(注3)顕在化する:はっきりと表れてくる
(注4)大義名分:皆が認める表面的な理由
(注5)捉える(とらえる):認識する

1。 (66) ①子どもは、うっかりすると相当に早くから、このような知識のつめ込みにさらされてゆく理由は何か。

2。 (67)②これらのことは何を指しているか。

3。 (68)③現代の教育の難しさとは何か。

4。 (69)④筆者が最も言いたいことは何か。